絵でも立体でもフェルトでも、作品を世に出すこと、表現することって自分を外に曝け出すことだと思っています。時には言葉よりも正直に雄弁にすべてを語る。そのこと自体にいいもわるいもなくて、ただ「そういうこと」なだけです。
作品を観てくれる人は、「その人」というフィルターを通して観ます。たとえ作り手(ヒロタリョウコ)のことを見ようとしていたとしても、「その人が思うヒロタリョウコ」であって、作品を観て感じて考えるのはあくまで鑑賞者が主体です。自分自身を観ています。観たときのご自身の環境や心の状態によっても毎回感想は違うかもしれません。
でも、なんかこの雰囲気好き、とか刺さる、とかよくわかんないけど苦手、など感覚で観るのも自由です。総じて「お?」って感覚。わたし個人も軽くて好き。疲れている時なんかは特にいいです。
誰かの心に小さな水滴がぽつんと落ちて波紋が広がる。そんなものがつくれたらいいのになという自意識も時には現れます。モチベーションにもなるのでわるいことではありませんが取扱注意の自意識なので、そんな時はひたすら没頭。つくっているものの声を聴きながら向き合う。と思って日々ものづくりをしています。
もっともっとエゴ全開だった頃からスタートして20年以上経ちました。答えや終わりがない世界、でも良くない作品は確かに存在する、とはいえ結局よくわからない、でも続けた先に見える景色がやっぱり気になる、つまり未来が見たい。そのための今現在。時代、環境、健康面での経年変化などあって若い頃の感じとは違いますが、心の声に耳を澄ませて今現在の方法を探しつつやっていけたらいいな。昔、「自分や人生とは戦うものではない」(うろ覚え)と言われたことがあって、それが今にきて活きている気がしています。